私の暮らし

発達障害の子供たちと小さくミニマムに暮らしていくのが目標です。

辞めます辞めます、辞めてどうする?


ああ、最近の私です。

ネットに本になんやかんやと刺激はあり
やってみようと奮起してみたり、やってみて撃沈してみたり。

ほんとに踊らされてる。


踊らされてるんです、わたしは。
確固たる信念もなく、盾も、なす術もなく
踊らされてる。

いいことにも悪いことにも。


糖質制限はやる、と決めて継続できてます。

今日まででマイナス2キロ。

たった2キロ、されど何もしなかったら減らなかった2キロ。

これからもやり続けていきたい。

辞めたいのは踊ること。

〇〇の暮らし、持たない主義、減らす主義。

子供を叱らずに育てる、〇〇ダイエット。

ぜーんぶ続かなかったこと。

信念がなかったら失敗したんだと個人的には思う。

真似をするのはいいこと。
でも真似から脱せないのはよくないこと。

私は真似ばかり。
指南書を読んでそのまんま。
なんのアレンジも思考も加えず
書いてあるとおりにやる。
だから、その次が、ないのだ。そして頓挫する。

元々の精神が培われていなかったから
指南書が終わるとチャレンジも終わる。
その繰り返し。
自分自身の手応えを感じることもなく
アレンジを思いつくこともなく。

そうすると、あれも辞めます、これも辞めます、それも辞めます、辞めます宣言だけ。

辞めてからじゃあどうするの?自分。

新たに生み出すことも出来なくて
既存のものは早々に見切りをつけたのに。
じゃああとは私自身の生き方、暮らし方を模索するしかないんじゃん。

と、今朝ここまで思って。

私らしく生きていたいんです、なんて言いたいなら動かなきゃ。

もう踊りたくないな。疲れたな。

もうそろそろ、座って景色を見たい。

実の親に嫌われたっていいじゃん。

自分の母親は毒親なのかな、とふと思ったのでした。

仲がいいとか悪いとかそんなんじゃなく
親子だから、いる、みたいな
そんな距離感。

子供の頃から振り回された想い出が多い。


光っては消えて、消えては別の色が光って…っていうクリスマスツリーに絡めた電灯みたいにコロコロ変わる心。

それに振り回されて
五分前で決まっていたこともひっくり返して、おじゃんにする。

そんな感じの、人である。

親は鬱陶しい、そう思っていた。
けど、なんやかんや頼まれると断れない自分がいて。


いつも面倒なことは人に丸投げで、損な役割ばかりだったのに。


いつの間にか、他人どころか実の親にさえ機嫌をとって嫌われないようにって思っていた自分がいたことを知った。


メールが来た。

「いついつ、遊びに行きます。都合はどう?」

私は家族に都合を聞いてみる、と返信した。

「私はもう仕事を休んでしまったのに、なんなの?」

とキレ出した。

機嫌をとろうと謝ってみると
ご機嫌になりはじめる。
あぁ、不毛なことしてるわ自分。

そう思ったら泣けてきて

「ごめんね。今回は都合があわないようです。またにしませんか」

母親は烈火のごとく怒り始める。

娘に「忠告」というタイトルでメールを送ってくるくらいなんだから
よほどご立腹なのでしょう。

ああ、もう嫌われてもいいわ。もう。

そんな気持ちになった。

なんで好かれてたいなんて
考えたんだろうと。

いいじゃん、実の親に嫌われたって。

相容れないんだから。
もう無理するだけ不毛なことなんだから。

親しか頼るものがなくて
すがり付いてたのは遠い昔。

人一倍感謝もしてる。
生んでくれてありがとうって思う。

でも、あわないんだ。
あなたとは。
それだけ。

もう、無理しません。
会いたくなったらそう想えたらメールします。

いつの日か。

蒔いた種が。

 

そんな風に感じることばかりだ。

 

それは誰のせいでもなく私自身の問題なのだろう。

 

全部私自身が蒔いている種が芽を出して

表面化しているだけのこと。

 

何もかもがうまくいかないと感じた時私はいつも自分を呪う。

全部自分のせい。

 

すごく暗いことを言っているけど

こうしていると心はマヒをして感じ方を鈍くしてくれる。

それが引き金になって私はいつもその跳ね返った銃弾を浴びるのだ。

 

それは時として罵詈雑言となり。

それは時として痛みを伴う視線や態度のように。

まとわりついてそばを離れない。

 

「おまえのせいだよ」と泣きながら私が震えている。

私の蒔いた種から私の亡霊が生まれて育って

やがて私を陥れる。

けれどそれは想定内のことで

私は繰り返し己の亡霊を生み出しては退治して

そうやって生きてきたのだ。

 

なんの救いもない、そんな気がする。

救いはどこにもない。

私が私を底から救い上げてくれなければ

この闇は続いていく。

 

私が私を求めて信頼しない限りは

私の救いの主は現れない。

 

あぁ、なんて暗い記事なんだろう?

 

この記事をPCから書いてみた。

とんでもない時間がかかる。

それでもスマホで打つより心が少し穏やかだ。

 

スマホなんて意味のないものを持ち続けて

更新し続けていく自分にも嫌気がさす。

それでも嫌気がさしていることすらも

やめる勇気がない。

 

いつも自分を好きになりたいと

大事にしたいと思って来た。

でもこんな記事を書いている有様なんだ。

 

頑張ってる、と言ってみる。

私頑張れてる、そう思ってみる。

 

僅かな自信をいつも打ち砕くのは

自信を無くした私。

 

人対私。

先生対私。

世間対私。

親対私。

園対私。

 

なにかといつも戦っている。

 

何かや誰かのことに心を砕き

頭を悩ませる。

 

誰かや何かといつも折り合いをつけて生きていこうとは

しているけど

私はいつ私のために心を砕き悩み考えるのだろう。

私がわたしのために生きるのはいつなんだろう。

 

いまこのときからそう決めて

生きるしかない、のに

私はまた踏み出せなくて

地団太を踏み続けるだけなんだ。

 

何がこんなにこわいんだろう?

なんで踏み出せないのだろう?

 

誰かの目を見て話してても響かないみたい。なにも。

 

そう思い込んでいるんだっていつも誰かが教えてくれる。

 

自分でもわからないよ。

どうしてこうなんだろって。

 

向けられるのは痛い視線と

無言の力。

 

何がいけないんだろう?とよく考えたけど

考えるのはやめたいな。

考えても答えがない。

答え通りに生きられないから不幸だなんて

思いたくない。

 

こんなことをツラツラ書くのだって

無意味なのかもしれない。

 

書いて体の外に出したい。

自分という毒にやられてしまうまえに。

 

 

 

 

人間関係という概念


私はメンタルクリニックに通っている。

主治医は女性で
凛とした空気の賢そうな人だ。

ただ生易しいことは殆んど言わない。

時おり言葉当たりがキツくて
泣きそうになるほどだ。

でも不思議だが、その先生に時々
頑張れたことやできたこと、やろうと前向きになっているという話をすると

それはまた柔らかな雰囲気で
優しく笑ってくれる。

それがなんだか担任に誉められた小学生のように嬉しくなるのだ。

大の大人に向かって

「よく頑張りました」

なんて、普通に聞くといらっとしそうだが誉めてもらえると嬉しくて仕方ないのだ。

何か次にきたときも報告できるよう材料を探したりする自分がいる。
もはや、気持ち悪い世界(T-T)

そんな主治医とは紆余曲折ありながらも
今は全幅の信頼を置いている。

私は内気でコミュニケーションが下手くそだ。人見知りで友達もいない。

人の言葉に傷つくたび自信をなくし
エグエグ言っていると

人間関係というのは私はないものだと思うと言った。

人間関係がうまくいかなくて苦しんでいる人がたくさんいるが私の考えでは
軸を自分にせず周りや他人に合わせているから不安になり苦労すると思うと。

私はわたし。そう、思っていたら
他者が何を言おうと自分軸で生きていれば気にならない。

ふーん、あなたはそう思うんだね、でいいじゃないか。

合わせる必要も、機嫌をとる必要もない。そもそも相手の腹のうちなどわからないのに機嫌のとりようなどない。

何を思い考えているかもわからないのに
その、相手の心中を想像しても無意味で
それで勝手に傷つくのは不毛で

例えば自分の発言で相手が嫌な顔をしたとする。普通なら自分の発言で気分を悪くしたのかもしれないと思う。
そこから負のループがはじまってしまう。

相手はもしかするとその通り自分の発言で気分を害したのかもしれない。
けれどたまたま虫の居所が悪く
誰が何をどう言おうとムカついている時なら悩む意味がない。

そんなの相手に聞いてみなきゃわからないじゃない!と思う。
それが人間関係を、自分からややこしくしてしまう。

聞かないとわからないからと不安になり自分のせいで人を傷つけたと思い
自分なんて喋らなきゃいいんだ、とか思い込んでしまう。

だからわからないよね、そんなの。

相手が何にムカついているのか。

私になのか、発言でなのか、元々なのか、あるいはなんだかこの人嫌いなのよねみたいなところから始まっていることもある。

わからないことを悩んで
人間関係につまずいたという。
それは勘違いというものよと。

あくまでこれは私の主治医の見解であるが、私はこれを聞いてから
嫌われてもいい、ハブられてもいい、
そんなのどうでもいいと思えてきている。

私はわたしだから、嫌いなら
それは仕方ないよね。

一番大切にしないといけないのは
自分自身。

一生つきあうのも自分。

人生のなかでたまたま出会った人に
心を砕かれる暇はない。

その人が私になにをしてくれるのか?

ワタシのことは私が大事にしないで誰がしてくれるの?

少しずつだけど思えてきたことで
変われそうな気がしている。

人のことは気にしても意味がない。

人様のことを気にしても仕方ないと
私は思っています。

人様の腹のうちも胸のうちも絶対にわかることはない。

雲をも掴むようなチャレンジをし続けることに意味はないと最近になって
気づいてそう思うようになりました。

スーパーの休憩所で斜め前の席のご婦人はしきりに
「なんでいきなりお隣さんが引っ越すのか?」と連れのご婦人と熱心に話をしている。


そんなこと、考えて何の意味があるのか?

いきなりといったけど、本当は前々から予定していたのかもしれないし 

いきなりになったのはご近所つきあいの躓きなのかはたまた転勤なのか
親の介護のためなのか、そんなことは
本人に聞いてみないとわからないこと。

そんなことを当人のいないところで
語り合う。本当に変な話だ。

人様の動向で自分の身の回りを気にしても仕方ない。

なるようにしかならないし、気にしてもしようのないこともたくさんある。

相手が今何をどう考えているのか、はかり知ることもできないことを元ネタにして話をしても結論は出ない。

気にしないのが一番だ。
わたし、これこれこういう理由で引っ越すんですよ、と言いに来てくれたのなら知る由もあるというものだけど
そうでなければいちいち突っ込まないしそっとしとけばいい。

なにもいってこないかもしれない。
そのときもそれまで。

私はいいお隣さんだと思っていたのに!
と思っていても相手も同じとは限らない。

掴めないものは掴めない。
 

髪を切りに。

今日は朝からかんかんでり。 
めちゃめちゃ暑い日。

髪を切りに行きました。
あまり馴染みじゃないけれど
ひとあたりのいい美容師さんがいるお店。
 

初めて訪れたのは下の子の育児真っ最中のなか託児所つきだったので
行ってみたのがはじまり。

そのとき、息子が発達障害であることを話したとき、なんの否定も驚きもなく

あ、うちもですよ、大変ですよね

って返してくれて。

あー、こんなこと話せる人がこの世のなかにいたんだ、ってなんか腑抜けて。

それから数回目。
まだ両手もいかないくらいだけど

話したいことを話せる人がいるって
とても幸せなこと。

勿論美容師さんだから話を合わせてもらえてるだけかもしれない。
それでもなんだか嬉しかったのだ。

心と頭とスッキリできた一日。

暑くてバテバテだけど
新しいヘアスタイルはなかなかいい感じだ。

また伸びたら話をしにいこう。

思い立つからやる。


今日は思い立って部屋の片付けをしました。

2階の部屋の読んでいない本や
使っていないおもちゃ、やみくもに積まれていた何かなどを処分。

ちょうど明日は可燃ごみの日。
具合がいい。

手当たり次第に捨ててみました。
そしたら本棚があまりました。
ビックリです。


うちは2階に部屋干しをしていますが 一階に服をしまうボックスがあるのでいちいち持っておりて、更にたたんでしまうというとっても面倒な仕事でした。


そこで2階に干すのだから2階に服をしまうボックスを置くことにしました。

一階に持って降りるものはたたんで
階段上に置いとけばいい。
とてつもなく便利。

一番上が受験生なので
さすがに小部屋がいるかなあと
何もなく放置していた部屋を細々と
改造中です。

本棚を移動したり、捨てたり
しまったり。

我が家には子供部屋はありません。
勉強机もです。

子供たちはリビングで宿題や勉強をしています。

個人の部屋がないのは
狭かったのもあるし、必要ないと思っているから。

プライバシー?
部屋に籠って守れる程度のプライバシーなんてプライバシーじゃないよ、と思っているから。

みんなで同じ部屋にいても
各々好きなことはできます。

だから受験生である今年だけ、小部屋を作ります。

と、今日はそんな一日。
お風呂に入ったのに全く意味をなさないくらい蒸し暑いなかやりました。

あと今日から糖質制限をきちっとやります。

しばらくは糖質を完全に抜いて
やってみようと思います。

開始時66.9kg

朝 なし
昼 キムチスープ
夜 きゅうりの漬物、キムチチゲ、ニラ玉 手羽中ソテー

間食はなし。

一週間。まずはやってみます。