私の暮らし

発達障害の子供たちと小さくミニマムに暮らしていくのが目標です。

感謝すべきは子供の努力

息子3人を難関大学に行かせられた親御さんの発言が議論を呼んでいるという記事を読んだ。

私が思うのは
昨今の教育に関して賞を獲ったり
名門に受かったり有名人になったり、という方の親御さんがどう子育てしたかについて発言されているのを見掛けるのですが

結果としてそうなったのであれば
自ずとそうなるように育ててきたからではないかと思います。

子供は親の鑑と言われるように
子供は親の育てたようになっていくものだと
思っています。

躾もマナーもルールも知能も
嗜好もある程度親のやり方で学んでいくものです。


であれば親御さんの教育が良かったから
世紀に名を馳せるほどになられたんでしょう。

そして我が子もとそういった方々の話を聞き
取り入れたいと考える方もいらっしゃるでしょう。

たた、果たしてこれは親の手柄か?と
考えたりします。

さながら私のやり方が良かったのよ、と云わんばかりのところも無いことも無いかなと
感じてしまうのです。

努力をしたのは親と子、どちらでしょう。
勿論両方だと思います。

ならば自分の育て方や子供が特殊な部類だったのだと言わず互いに高みを目指して共に頑張ってきたのです、でもいいのではないかと。

目標を定めてその一点に総力を注ぐ。

それを貫いた人々だけが
世間や世紀に名を馳せることができる。

親の力添えと子供の努力。
それが形になったとき大成していくのだろうと
個人的に思いました。


親が子に出来ることはそんなには
ありません。

子に親にしてもらい今の自分があるのです。
望んで親になり、育てさせてもらっている。

子は親にたくさんのことを教えてくれます。

気づかないうちに私がしている
人を不快にさせる発言や行動。

人を喜ばせられる術や表情や声色。
人の感情に敏感になること。

してほしいこと、されたら嫌なこと
何が危険で何が安全か問われていること。
それをどうわかりやすく伝えるか
どうしたら人に思いや思考は伝わるか。

そんなひとつひとつを身を呈して
彼等は教えてくれる。

私という人間がどう評価されているか、それは
彼等を見ていればわかり
彼等からの表情、態度、行動などありとあらゆるやり方でいいところと、だめなところを
指摘されつづける。
順次自分なりに修正していかねばならない。

でもその努力をすることで
より自分を好きになれるし大切にしたいと
思える。

いつまでも彼等に愛される親でいたいと。
努力をし続ける。

私の親はあなたがいい。
そう評価をもらえる日まで努力する。
親が出来るのはその程度だ。

傲慢で欲深い私に娘は言う。

そんなものまだいるの?
無くてもいいんじゃない?

AとBどちらか悩み
両方買っちゃうか?

悩むなら両方やめとけば。


子供は肉が好きよね、と
肉料理を出すと

子供が肉好きだからって
毎回肉出しとけばいいやって思ってない?

レバーが嫌い!といえば

私もミカンが嫌い。でも好き嫌いは誰にでもあるからいいんじゃない?

つくりすぎ、いいすぎ、やりすぎ
わからなさすぎ。

いつもそう叱られながら反省する毎日。
それでもそんな私と今日も一緒にいてくれる子供達に感謝。

顔を洗わない生活に。

顔を石鹸や何かしらで洗わなくなって
そろそろ1週間たちます。

気づけば顔を洗わなくても
私は平気になっていました。
面倒くさいことからひとつ辞められて
助かっているくらいです。


こんなことを言うとドン引きされるのでしょうが
私はお風呂が嫌いです。

暖かい湯船に浸かっているのは好き。

頭を洗う、身体を洗う、顔を洗う

そういうのがこの頃面倒くさくて
憂鬱になりそうでした。

湯シャンの存在は知っています。
これは髪質上清潔感を損ないかねないので
シャンプーで洗います。


顔を洗うのはベビちゃんという石鹸を
長いこと使っていました。

でもしばらく売り切れだった時があったのと
石鹸一個に1620円という価格が
自分的に適正価格ではない気がしてきたので
使いきったのを機に顔をお湯で洗うだけにしました。

化粧水や美容液の類いは元々持っていません。
メイク道具もひとつもありません。
どこにいくにもスッピンです。
公式の場を除いて。


顔をお湯で洗って終わり。
体はボディタオルで洗うのをやめ
泡立てた牛乳石鹸で手で洗います。

シャンプーだけまともにやれば
いいのが楽(*´∇`*)

学生の頃塩シャンをしてました。
冬はきつかったですね。
冷水を浴びるのが😞💦

塩浴もしてました。
今は子供と一緒に入るので
身体中に塩を塗り込む手間があるので
難しいかもしれません。


一人で入るようになれば
再度してみたいです。


とにもかくにも
お風呂が楽なり良かった🎵


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生活を改めてから変わったこと。

自分なりの暮らしやすさをと
始めたことや気付いたこと、やめたこと
取り入れて良かったこと。


ミニマリズムやシンプルライフとは
程遠いながらも
この生活を少しずつ修正しながら
暮らしていく楽しさは結構はまります。


まず、食べるならなるべく美味しいものを
食べたいと思ったことから始まった
パン作りやおかず作り。

金曜日の夜に仕込んで、朝二次発酵後焼く
というやり方は楽で続いています。

ふわふわしたパンもおいしいのですが
私が好きなのはクイックブレッドです。

ヤミーさんの本にあったものを真似して
作ってみてあまりに手軽で美味しかったので
お昼ご飯やおやつにクイックブレッドを焼いて
食べています。

もちろん子供にはうけません。

子供はやはりフワフワしたパンが好きなのだと
思います。


やや堅めで歯ごたえのあるパンは
食べにくいのかもしれません。

このパンを焼くということから始まって
なるべく作れるものは作ってみるというやり方を始めたら変わったのは


生活パターンがまず変わり
行動パターンが変わります。

何処かにやみくもに出掛けて
お昼を外で買ったりお店で食べたりすることが
殆ど無くなりました。

やみくもに出掛けたとしても
作ったパンに、チーズ、飲み物を持って
出掛けるのでどこで何をお昼にするか?という
悩みがない。

公園や外出先のフードコートやイスのあるところなら食べられます。

午前中パンを焼いて食べて家の仕事をして
のんびりすごすのが楽しくなりました。

みんなで本を見ながら
次はどんなパンを焼くかとか 
おやつ食べたいなと思ったら何か作って食べようかとかそんな話をしたりするのも楽しい。

と、まとめて。

①外食がほぼ無くなったこと。
②惣菜を買わなくなったこと。
③コンビニでパスタやおにぎりなどを
買わなくなったこと。


食べたいなと思ったら
作れるかどうか調べたり用意することが
食べるという行為により深さを持たせたような
感覚があります。

買って済むけれどうちでも作れるね、と
思える。

材料を一から揃えるから出費はあるけれど
その材料の使い方を知り
何が作れるかを知り
何が食べたいかに繋がる。

食べるものに興味を持つこと。食欲以外に。

そうすると身体を大事にしていこう
身体にいいものを食べようと思える。

今まで週5コンビニに通い
パスタやおにぎりや唐揚げや肉まんを買って
食べてきた自分にとってこの変化は
すごく大きいのです。

コンビニのレシートだらけ。
スーパーに行けば惣菜だけで1000円を越え
何も買ってないのに会計がバカ高いということばかりでした。

何も買ってないのです。
その日のうちに食べきってしまう惣菜ばかりで
明日もその後も使えるようなものを
買ってなかった。

だから次の日も買い物に行かなきゃならない。

その日食べきるものを買って
食費がかさんで頭を捻る。

そういう繰り返しだった頃から
今は変わってきました。

そういう風に変われていることが
自分なりに嬉しいのです。

買ってきた唐揚げをうまいねーと食べた頃より

唐揚げはうちで作ったのが一番だね、と
言ってくれるのがただただ嬉しい。

近所のおばちゃんに美味しい唐揚げの
タレを教えてもらって作ったり、作ったことのない料理の作り方を教えてもらってまねしてみたり。

市販の素を買わなくても美味しいものは
作れるとわかって冷蔵庫もスッキリ。


自分で拵えたものを美味しいと食べてもらえるのはめちゃくちゃ嬉しいこと。
それを知ることができてよかったと思います。



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私の中の良心について。

今日、コンビニで雑誌を買いました。


と、今日は息子の誕生日でした。
めでたくお陰様で6歳になりました。

彼はケーキが嫌いです。
よってケーキもない、チキンやグラタンや
華々しさの欠片もない食卓となりました。


彼は今、身長を伸ばすため
日々牛乳と煮干しをえづきながら食べています。
そんな彼ですが来年は小学生となり
益々の発展を勝手に期待しています。



と、私は今日コンビニで雑誌を買ったのです。
買ったはずでした。
ろくにレシートもみないで払い
家に帰り、家計簿をとよく見たら
雑誌代が含まれていない( ; ゜Д゜)


頭の中に天使と悪魔が
普通に出てきて

『黙っとけばいんじゃね?』

『ダメよそんなの!泥棒と同じよ❗』


と始まりました。

あぁ、私は最初悪魔が優勢でした。
小さな人間でごめんなさい、母さん。


頭の中で悪魔が優勢でした。けど
テレビを見ながらおやつを食べる彼等を見ていたら


これはきちんと払うべきだ。と
思いました。


私は親なのだ。
こんな半端なことをすべきじゃないんだと
思いました。


ちょっとでも黙っとけばいんじゃね?と
思った自分が恥ずかしいなーと
悲しくなりました。

きっと彼等が同じことをしたら
私は怒るでしょう。

泥棒と同じじゃないか!と
言ったでしょう。


適当なことをしていたら
彼等にきちんとしろ、なんて
言えなくなります。

すぐさま天使が舞い降りて来なかった私にも
若干の良心があったことを
悲しみと共に少し喜びました。


お店に電話をして
雑誌とレシートを見せて
きちんと買いました。


きちんとすると心がシャンします。

彼等といると彼等の心の美しさに日々
私の淀んだ眼は洗われていると感じる。

私の眼を常に洗い流し
見るべきものを見せてくれていると
私は想い感謝しています。
ありがとう。


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捨てていく不安


モノを捨てていくと不安だった何かが
ほんの少しずつ積もっていないことを感じられます。

今の私は。

捨て始めていたころ
私の心の中は不安だらけでした。

せっかく買ったのに
勿体無いじゃない
まだ使えるじゃない
高かったのに
今はいらなくて捨てても
後でやっぱり必要だったらどうしよう?


そう、どうしよう?


不便かも、いるかも、捨てたら怒られるかも
もうどこにも売ってなかったら
どうしよう?

どうしよう?病です。
ひどいひどいどうしよう?病。


今もあります。
捨てるその瞬間買った時から捨てる今までを
走馬灯のように思い出します。

でもその中にとっておく理由は見つからない。

今いらないからとりあえず捨てます。

後々どうしようもなく必要になったら
その時考えます。

新調するなり借りるなり
するでしょう。
手間はそれぐらい。

私は面倒臭がりなのです。
深く考えることも時に嫌になります。

特にあってもなくても死にはしない
もののためには。

家の中が乱雑であちこちにものがあって
細々したものがあって
掃除機をかけるたびうんざりする。

片付けなさい!と怒鳴るのがうんざりする。

怒る材料を出来ることなら減らしたい。
家族の精神磨耗からしても少ない方がいい。


ちょこちょここれはもういらないだろうなと
思うものを捨てます。

今まで無いと困ると思っていたものが
無くても大丈夫だとわかったら
不安が消えます。

有りすぎると何を持っているかわからなくて
不安になる。
それがあとどれくらい使えるのかいつまで使えるのか不安になる。

無いものは無いと
こんなに楽なのかと感じています。

冷蔵庫がスカスカでも
お財布の中身が寂しそうでも
訳の解らない不安に襲われることが
殆ど無くて自分でも不思議なほどです。

無くてもなんとかなります。

この清々しさは
モノを捨て楽な暮らしを目指し始めてから
感じられる気持ちのよいものです。


囚われず固執せず
なるようになる


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掃除をする。

今日は玄関の前を掃き
いつも迷惑をかけているだろうお隣さんところも
ちょっと掃き

玄関横の窓に越してきてから
取り付けていた100均で作った壁かけ収納を
取り外してかごにあったものを選り分け掃除して
窓と桟をきれいにした。


ごちゃごちゃついものを入れたくなるかごを
取り外したのでだいぶスッキリした。


シャチハタ印やペン類は
マグネット式のものにいれて
玄関のドアにはっつけている。
大変便利。

子供達にもそこに片付けるように伝えられるし
わかりやすい。

カギやヘアゴムもそうしておくと
紛失率が減ってありがたい。


ものが多いと必然的に
片付けるという行為が必要だ。
というと、子供達にも同じことを言わねばならない。片付けなさいと。

これが実に面倒臭い。
つい早く早くと言ってしまう。
片付けたつもりなだけで片付いていないと
怒る私が必ず現れる。

片付けやすくて出しやすくて
そういう仕組みを模索しています。

そのために必要なものを絞る作業を
毎日する。

いつどこでどう使うか。
どこにしまうか。
どれくらい必要か。


毎日家の中を検索する。

いるもの、いらないもの
代用可能なもの、今すぐ答えが出ないもの。


それを選り分け
またふるいにかけ
ものを減らす。
定位置を決める。

その繰り返しをして
ものと暮らす。

明日はどこを片付けようかな。

今日の出来事から。


今日は髪を切りました。
1000円カットみたいなところ。

ほんとは一度でいいから似合う髪型に
出会いたいものだと思うほど

硬い、多い、太いの三重苦なうえ
癖毛のため

どこへいっても
ストレートパーマか縮毛矯正をしたほうがと
言われ、なりたいスタイルには
なれたことがありません。

なりたいスタイルにするのに
わざわざ真っ直ぐにしなければならないことが
もう嫌で一年に一回美容院にいき
その間はセルフカットで済ますという
やり方をしています。

とはいえ、なりたいスタイルにもなれないことに
かかる費用を抑えようと
ここ一年1000円カットです。

求めるのは人並みに切り揃うラインであり
完成形ではありません。

理想をいうとほぼ100%、切って捨てられます😖


あまり期待はしていない。

けれど、今日の接客は酷かった。
それだけが今日一日腹が立って仕方なかった。

いっそ苦情の電話でも、と思ったけれど
やめました。

これはきっと、何か意味があったのだと
思うことにしました。

この経験からきっと学ぶべき何かがあると。


まず苦情の電話をするということを
我慢する。

そして考える。

苦情をいうなら言ったでそのあと自分はどうしたいのか?どうしてほしいのか?

途中までやりとりを思い浮かべ
どどのつまり、どうしてほしいのか?と
考えた時思い浮かびませんでした。

落としどころのない怒りなのだと
認識しました。

八つ当たりのようなものだと。
苦情を言って謝ってほしいだけ。
謝らせたいだけ。自己満足だ。

そんなことのために人を嫌な気持ちにさせて
果たしてスッキリするのだろうか?


自己満足のために、苦情をいれるのは
やめようと思いました。


正直鏡を見るたび思い出して腹が立つ。

それもそのうち、忘れるはずです。
むやみやたらに怒りをぶちまけないで
生きていこう。
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