迷える大羊

いみのある日もない日も私は私。どんな自分でも今あるこの世界で生きて暮らして綴っていく。糖質制限始めました。たまに買い物の話を。

そうだ、そうだったんだね。

ミニマリズムに取り付かれてきたこの道。
振り返ればなにもかも残らなかった道。

手元に要らないものを売ってお金にして
手元に置いていても心に安らぎはやってこない。

もののない器やケースをみても
心はがらんどう。


一体全体何がいけないのか、わからなかった。


けどそれが解った日。


ネットで読んだ記事のことば。がそれ。


消費を減らすのではなく
生産する側になること。

家中からものを撤去するのは
本当の意味でなにも成せないこと。

消費を抑えて出費を抑えて暮らすのは
ミニマリズムでもなく質素なだけなのかも知れないということ。


私のなかにずっとあった、捨てても捨てきれなくてまとわりついている何かや不安は
ここからきていたこと。

捨てるばかりで何も生み出せていないこと、捨てきったあと何をしたいのか見つかっていなかったこと。

それは足の踏み場もない床を片付けたらいらないものの下から見つかる答えのようなものを探していたから。

底が見えてきても何も見えない。今も。

もう捨てるものはないのにでも焦っている。
捨てきらないと幸せはこないのにと。

着れるけど使えるけど捨ててきたもの。

それは、本当にいらなかったの?
今もわからない。

でもヒントを今日見つけて私は考えていこうと思った。


生み出す側にまわること。

自給自足をできるようになること。

必要なものは必要なだけ自分達の手で生み出して不要なものなどないようにすること。
始末な暮らしとはそういうことなのかな。

必要なぶんだけ作る。余りもきちんと生かす道を知ること。そして不要に捨てないこと。

生み出す側になることは決められた収入内で考えるだけじゃなくプラスを考えていくこと。

私自身も収入を生み出す術を身に付けること。

そのために何がしたくて、何がいるのかを
改めて考えていくこと。

そんな私はミシンを買った。
家に子供と居てもできること、すきなこと。
好きな布で好きな鞄をつくること。

いつかいつか、服も作れるようになりたい。
子どものや、私のや、旦那さんの。

いつかは、いつかな。、

きっと、その日を迎えたよとここに書けるまで頑張ろう。