私の暮らし

発達障害の子供たちと小さくミニマムに暮らしていくのが目標です。

息子、怪我をさせる。

息子がクラスメートに怪我させました。

幸いなことに大事には至らなかったと聞きましたが
一報をもらったときは血の気がひきました。


これが初めてじゃない。
何回目だよと。

あれだけ、怒りを人に向けてはならないと教え、息子もわかったと言っていたのに。

学校の先生も動揺されてる。当然のこと。

何かあれば、残れば、大変なことだ。


たんこぶだけで終わりましたと聞いても
ホッとなんて出来ない。

たまたま、大事には至らなかっただけ。


次はもうないかもしれない。
その時のことを考えた。

ふざけて、羽交い締めにされたことでパニックを起こして突き飛ばしてしまったようだが
これから先もそういうことはなんべんもあるだろう。

そのたびに突き飛ばしていたらきりがない。
逃げること、大人をよぶこと、パニックを鎮める方法。やるべきことはたくさんある。


支援級に進級したことで今までの不安や悩みは減ると思っていた私は安直だったのだ。

これからが正念場。

普通と言われる世界のどこかで生きる術を
会得していかねばならない。
ここはスタート。

息子とともにこの道を進んでいこう。

365回登る。

毎日暑くて溶けそうです。
8月あたりにはもう生きてないのかもしれないなと思うほどです。

夏休みに入り、お昼やおやつに
頭を悩ませます。


でもここは開き直って、ごく普通に
ご飯とおかずと汁物をだしてみました。


暑いので火を使いたくないとは思いつつも
使わない方法がイマイチわからない。


汗ダクダクで火を使って調理をしてしまうことにしてやる気を奮い立たせています。


幸いなことにお昼食べた残りでも文句が出ないのは有り難いことです。

我が家は文句があるなら食べなくとも良いシステムです。出されたものが嫌なら自分で作って食べてねというやり方です。

因みにそれすら拒否するとおやつ、ジュースなしで次の食事まで我慢です。

栄養とかバランスとか食育とか
もはやそんなところから随分とおざかっています。


子供の体と心を管理するのは親の努めと言われますが野心の足りない私にはそんなことは難しすぎます。

自分のことでさえ手一杯で、日々息切れしながら
なんとかやっているのに
管理するとかそんなのはもう無理。


誰がなんと言おうが関係ありません。

本当にしなければならないことと、そうでないことの区別すら曖昧なのですから。
毎日生きること、それはとてつもなく難しく

丁寧に暮らすとか暮らしを整えるとか
そんな次元にすらいません。


365個の山を超えるので精一杯。


毎日が山登り。

息切れしながらもそれでもやり抜く。
続けていく。
今できることをやり続けること。

あ、きれいに片付けましたかね。
ズボラなだけです。すみません。

ピクルスを漬け、私を愛することを思う。

夫の食生活のため
たまたまスーパーで漬物フェアをしていたのでこじんまりとした瓶を買い
プチトマト、キュウリ、パプリカ、ニンジンを買いピクルスを漬けてみた。

夫の反響としてはまずまずで
ニンジンが美味しかった!と喜んでいてニンジンを足しといて!と言うので足しておいた。


そして今日は通院日。



人間関係の辛さを訴える。

主治医から言われたことは
 
自分を軸にしてものを考えること。
自分を大切にすること。
自分の声をちゃんと聞くこと。


空気を読まなきゃなんて思わなくていいし、自分のせいで誰かが嫌な思いや気持ちになったとしてもそれは私のせいではなくその人のことだから
そこまで責任を感じなくともいいのでは?ということ。


自分の機嫌は自分でとるもの。
自分を大切にすることができるのは私だけ。
目の前の友人関係より長く深く付き合うのは誰なのか、自分だよね。
なら自分を大切に。


その言葉を聞いて心が楽になった。

人は変えられない。
自分が変わるのだ。

嫌われてもいいけど、嫌われるのには慣れない。

いつだったか、心屋さんの本を読みました。

人に嫌われることをしてもいい。
それを恐れなくなると幸せがやってくる、みたいな文章だった。


自分に聞く、したいかしたくないか。
したくないことは辞めてもいい。
それで私の価値は下がったりしないと。

やりたくないことだらけの人生。
もちろん、しないといけないこともある。


自分の意志で篩にかけられることの中で
改めて考える。


こうしたほうがいいんだろうな、後々のために。
とか思っていたことをやめてみたいと思った。

辞めたのは園のママさん同士でのランチ会。

ほぼ全員毎年参加すると聞いて
しなきゃならないのか、ならするかと思っていた。


けれど最終的には不参加にしました。


人付き合いが苦手なのによく知らない人とランチ会をしても絶対に楽しくない!と私は思った。


よく知らないから、人となりを知るのに
いいチャンスじゃん!とも思ってみたが
そういう皮算用はいつも外れてきたのだ。

園の行事もPTAも人付き合いの一歩!ここからママ友ができるはず、と思って参加したが
結局はぼっち。

こうなるはずと思ったことはまず実現しない。


挨拶してスルー。声かけてスルー。
奇数であまり、余った同士でもあまり行く先が見つからず「今回は参加者が多いのでお手伝いは結構ですよ」と返され。

なんのために朝の時間参加してきたのか。
自問自答した。

なんで、あまるかなあ?と。


そんなに避けられる感じなのかなとか、考えてもわからなくて。

わからないから考えないこととして。

訳わからないものは参加しないと、それだけを決めた。

結局ランチ会は私だけ不参加で
次の日。

ランチ会で繋がったであろうママさん方が
あちらこちらに塊を作っているのを見て
ことさら居場所はもう無いなと感じる。

うん、けれどこうなるのは必然。

どうでもいいや。
あまりです私。

あまってるけど群れるよりマシ。

素の自分になったら好かれるってなんでよ?


昨日立ち読みした本にあった一節。


心の中にローリングなんたらが巻き起こるくらい衝撃的でした。


今の今まで素の自分を見せられない。
そんな上辺な付き合いはしたくない!って
上辺を装うから好かれないんだと
思っていた。


けどこの一節のように

素の自分になったら好かれるか?


これは正直ハテナなんだね。という。


素の自分になったら、逆に今あるもの無くしちゃうかも?みたいな。

嫌われて誰もいなくなるかも。


目からウロコ。ウロコ雲の空みたく
目からウロコがハタハタ飛んでって
価値観ぶっ壊されてっていう。

作ってなんぼ、なんだろうなって。

みんな、ナチュラルに生きてたいけど
不自然に生きるしかなくて
それが一番結局いいんだねみたいな。

だってホントはこいつ大嫌い!って思ってても大嫌いだよ、お前のこと。とは
明日ここを引っ越す覚悟じゃなきゃ言えない。

私の素を知って、去る人、来る人、どれくらいいるだろう?

自然を作っていく時代。
自分を自然に作っていくのだって
当たり前の時代。

きめたことは悪あがきしないということ。

友達、いたらなにか違ったのか。

友達と呼べる人は今までの人生に
ひとりもいない。

それって恥ずかしいこと?

話し掛けられても何を話したらいいのか
わからなくて頭が真っ白になる。

いつの間にか空気の読めない、暗い人になっていてそのまま大人になってしまった。


ため息をついても何も変わらないし

いきなり友達だよ!と誰かが現れてくれるはずもないから空を見よう。


私には私を必要としてくれる家族がいる。
それは有り難いこと。

この広い世界で好き!って言ってくれる人がいるだけでここまで来た意味はあった。

嘆くのは今はよそう。

辞めます辞めます、辞めてどうする?


ああ、最近の私です。

ネットに本になんやかんやと刺激はあり
やってみようと奮起してみたり、やってみて撃沈してみたり。

ほんとに踊らされてる。


踊らされてるんです、わたしは。
確固たる信念もなく、盾も、なす術もなく
踊らされてる。

いいことにも悪いことにも。


糖質制限はやる、と決めて継続できてます。

今日まででマイナス2キロ。

たった2キロ、されど何もしなかったら減らなかった2キロ。

これからもやり続けていきたい。

辞めたいのは踊ること。

〇〇の暮らし、持たない主義、減らす主義。

子供を叱らずに育てる、〇〇ダイエット。

ぜーんぶ続かなかったこと。

信念がなかったら失敗したんだと個人的には思う。

真似をするのはいいこと。
でも真似から脱せないのはよくないこと。

私は真似ばかり。
指南書を読んでそのまんま。
なんのアレンジも思考も加えず
書いてあるとおりにやる。
だから、その次が、ないのだ。そして頓挫する。

元々の精神が培われていなかったから
指南書が終わるとチャレンジも終わる。
その繰り返し。
自分自身の手応えを感じることもなく
アレンジを思いつくこともなく。

そうすると、あれも辞めます、これも辞めます、それも辞めます、辞めます宣言だけ。

辞めてからじゃあどうするの?自分。

新たに生み出すことも出来なくて
既存のものは早々に見切りをつけたのに。
じゃああとは私自身の生き方、暮らし方を模索するしかないんじゃん。

と、今朝ここまで思って。

私らしく生きていたいんです、なんて言いたいなら動かなきゃ。

もう踊りたくないな。疲れたな。

もうそろそろ、座って景色を見たい。